『祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす』

全国青年保育者会議 香川大会レポート


 「平家物語」によると、高松は屋島の戦で源平争乱のさなか、平氏方は海に浮かぶ船上に扇の的を用意した。那須与一は、義経より命を受け馬上から一矢でこの扇を射落として敵味方の賞賛を得たとのこと。されば、今ここに、屋島を望むサンポート高松において、今一度「子どもの未来」のために扇の的を射落とそうではないか。(大会パンフレットより)

 少雨のため高知の早明浦ダムの貯水量が減り、給水制限が発令寸前の7月6日、讃岐の国、香川県高松市で全国青年保育者会議が開催された。場所はサンポート高松。サンポート高松とは四国を代表する建物のひとつで、その中のシンボルタワーは地下2階地上30階もある、存在感のある建物であった。

 


1日目は開会式と基調講演、本部報告ならびに懇親会があった。開会式の前にオープニングデモンストレーションとして、少林寺拳法が披露された。
 小学生から壮年の方、老年の方まで組み手があり、女性同士の組み手や、師範代同士の組み手は迫力があり圧倒された。師範の話では、少林寺拳法は護身を目的としており、むやみやたらに使うものではないということだった。
  少林寺拳法の総本山が香川で、その開祖の教えである‘半ばは自己の幸せを半ばは他人の幸せを’は、福祉の現場でも当てはまる部分もあり、又、香川県部長の‘保育協会青年部に活を入れる’との思いをこめ、デモンストレーションの依頼をしたとのことだった。

 その後、熊本県青年部有志で『‘ぬきうち’さぬきうどんツアー』を敢行した。一軒目にお邪魔したのが「わら家」さん。源平の戦場として有名な屋島付近にある有名なうどん屋さん。店の趣は避暑地にある甘味所を大きくしたような雰囲気。注文したのは釜揚げうどん。運ばれてきたとっくりのつゆを小鉢に注ぎ分け、その中にねぎと生姜を入れて食べる。麺はコシが強く口の中でつるっと滑っていく。つゆは熱く、しょうゆの味が強かったが、生姜とネギとの相性が良く、うどんとの絶妙なハーモニーを醸し出していた。
  二件目にお世話になったのが「山田屋」さん。元は造り酒屋であるこのうどん屋さんは、入り口から昔のお屋敷そのものの佇まい。門から一歩踏み入れた庭は、見事に手入れの行き届いた日本庭園であった。その先の純日本家屋風の建物でうどんを食した。ここの名物はぶっかけうどんであったが、・・・かつてないほどの幸福を感じるうまさだった。大根おろしやネギ、ゴマなどに、すだち汁をかけたぶっかけうどんは、今まで食べたどこのぶっかけうどんよりもフルーティで、また、コシのつよい麺はだしの味を程よく伝えていた。 
  福嶋部長以下、皆のお腹は程よくふくらんだが、その後の高松シンボルタワーでの立食懇親会にも参加した。シンボルタワー最上階(29・30階)にある「料理の鉄人」の鉄人の店で、料理を味わいながら、高松の夜景に浸っていた。  


 2日目は朝からパネルディスカッション「トークしよう、参加show」。これは、壇上の3人のパネラーが一人づつ自分の園で取り組んでいる内容や、保育を取り巻く諸問題についての意見をだし、それを1人のコーディネーターが意見をまとめつつも総合的な見解を示すという内容であった。このパネルディスカッションは、テレビ番組で視聴者意見メールの内容が放送されるのと似て、座席に座る私たち参加者はメールによりステージ上に映し出されたスクリーンに意見を投影させることができるという画期的なものだった。

 午後は、参加者はそれぞれの分科会にわかれた。私が参加したのは第1分科会「子育てにおける保育所の役割とは・『〜地域の子育て支援の取り組み〜』」であった。講師は関東学院大の大豆生田(おおまめうだ)啓友氏。
  「子育て支援とは大きいことじゃない。子育て支援の1つ目は、子育てをしている親や家族へ、周囲の人地域や保育園が気を使い支えあうということではないか。例えば親が自分の時間(自分が自分として在ることを確認できる時間)を持てるようにしたり、子育ての悩みを連絡帳などのコミュニケーションで普段からしっかり聞き、受けとめ、共感をすることで子育てのストレスを緩和してあげることが子育て支援といえるのではないか。子育て支援の2つ目は、子どもにとって本当にふさわしいことをしているのか、不必要な支援を行っていないかどうかを周囲がしっかり考え確認するということ。3つ目は、子育てを地域で支えあえるようにネットワーク形成ができるようにすることであり、また子育て支援は地域を良くする取り組みのひとつであるべきだ。」という内容だった。その後アンケートを書き、子育て支援についてのグループディスカッションがあり、分科会は終了した。


 3日目は始めに各分科会報告があり、その後、社会福祉法人まどか保育園理事長の樋口氏による「保育とは、生きる力を育てる教育」という題の記念講演があった。樋口氏は日本型の保育とは何だろうという問いに立ち向かい、独自の保育(従来一般的に実践されつつある保育から脱却し、何が子どもにとって必要かを考えた上で作り出した保育)を展開されているとのことであった。
  「子どもの言葉は人と人との関係によって育っていくということや、人間は後天的背景(環境等)によって左右されるということ、視察で訪れた園舎のないあるドイツの保育園(森で保育をする)と比較して日本の保育ではいろんなことを経験させているが、学校に入る前に身につけさせておくべきことを身につけさせているのだろうか」ということだった。
  樋口氏の園で取り組まれていることで重視していることのひとつは、生活の流れを子どもたちに認識させ自発的にその流れに取り組めるようにするという点だった。それは保育士が主体的になって子どもを動かすのではなく、子どもたちが進んで次の日課に取り組んで行けるように補助的役割を果たすということであった。遊びについても同様で、初めはルールを教えるが、後々は子どもたちが自然と考えて遊びをするようにもっていくというような取り組みをされているということであった。又、先生間の役割分担の徹底や、未満児を中心にグループ分けによる少人数保育もしているとのことであった。                     
  以上のような保育の取り組みを通じて、子どもたちが今何をしなければならないのか自分たちで判断でき、またその中で自分たちのアイディアで遊びなどを考えることで、生きる力を育めるようにしているという事だった。話を聴いた上で共感できる部分は多く、取り入れ可能な部分は取り入れたいと思った。
  閉会式の主管者挨拶では、筑後氏(香川県青年部部長)が感極まって涙された。それを見て思わず鼻の奥が痛んだ。こうして第27回全国青年保育者会議香川大会は幕を閉じた。(福島基)


青年保育者の叫び 俺に語らせろ!?

  もう気が付けば7月も中旬、うっかりしていたらなんと梅雨も明けたとの事、いよいよ夏も本番となってきました。しかし毎年の事となって来た感があるのですが、なんだかこう変な天気・気候が続きますね。4月から夏日が続き、入梅しても雨が降らず、一旦雨が降れば集中豪雨、どうなってるんでしょうね(統計学的にいえば誤差の範囲らしいのですが)。
  他方、私たちの社会でも「どうなってるの!?」と言いたくなる様な出来事が、あとを絶ちません。高度に情報化された現代を象徴する様な振り込め詐欺・スキミング詐欺・ネットでの呼びかけによる集団自殺等のネット犯罪・事件や、特に私たち保育に携わる者にとっては敏感にならざるを得ない児童虐待や親族間での傷害・殺人事件等々の増加…「世界一安全な国・水と安全はただの国=日本」という安全神話の中に育ってきた私などにとっては、にわかには信じがたく、昔かわいかった甥っ子が数年ぶりに再会したらヤンキー [i]になってしまっていた、という様ないたたまれなさ・居心地の悪さを感じてしまいます。 
  今日のこの様な状況を作り出しているものは一体何なのか?硬直化した社会構造なのか?歪んだ個人主義なのか?小泉政権なのか?貴乃花の仏頂面のせいなのか?そんなに俺が悪いのか [ii]?ギザギザハートの子守唄なのか [iii]??????とこんなことを考えてみても答えは出ず、往年の三球・照代の地下鉄ネタのように「また寝らんなくなっちゃった」 [iv]とトホホな台詞が頭の中を駆け巡ります。
  ただその背景として一つ挙げるとすれば、個人の中にある(現状を)どうしたら良いのか分からない・どうなれば良いのか分からないという感情・雰囲気ではないでしょうか。社会の価値観は多様化し様々な価値観が許容される状況は、社会の在り様としてとても好ましいものであると思います。しかし、現在の社会の状況は、簡単に言うと個人も社会もどうしたら良いのか・何を考えれば良いのか分からないという事の様に思えます。何を価値基準にするのか・何を本質とするのか・善なのか悪なのか・若なのか貴なのか [v]・ブタゴリラって何だ!ゴリライモとは何事だ [vi]!……???ちょっと興奮のあまり悪のりしてしまいました。失礼致しました。
  では余白もだいぶ少なくなってきたようなので、今回のコラムの「結び」に行きます。高度に経済・技術が発達し、情報の氾濫とともに多種多様な価値観・考え方が入り乱れる現代において、私たちはどうあるべきか、何をするべきかを指し示すことは残念ながら出来ません。しかし、一つ言えるとすれば、身近なことから一つ一つを考え進めていく。地球平和にとって自分が如何に無力であるかを恥じる前に、近親者や隣人との和合を図る。自分が聖人のように振舞えないことを恥じるよりも、自分の「行い」「思い」がどの様な意味を持つのかを考える、こうした事を一人ひとりが重ね合う事にこそ必要なのではないかと思います。古の言葉によると「 挈矩(けっく)の道」[vii]というのですが、挈矩(けっく)とは(さし)がね(定規)を手にとって計るということで、つまり身近な一定の基準を取って広い世界を推し量ると言う事です。おのおのが各々の基準を持ちながら己の思う正しさを常に見つめ直し、また他者にとってもそれぞれが持つ正しさを持っているのだということを慮る(おもんばか)
  保育という仕事・行為を考える時、自分を見つめ直し考えることをやめない・諦めない・人生なげたらあかん [viii]と言う事、また他者にも同じような心情・命があるのだという思いやり、こうした事を子どもたちに伝えていくことが大切ではないかと思う、今日この頃なのであります。(緒方)



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